アメリカ最大の医療保険会社CEOが射殺されたワケとは?

アメリカ現地時間の2024年12月4日早朝、ニューヨーク・マンハッタンでユナイテッドヘルスケアのブライアン・トンプソンCEOが射殺されました。クリスマスムード一色の時節に起きた凶行のニュースは全世界に伝わり、世界中の多くの人に衝撃を与えました。トンプソンCEOはなぜ射殺されたのか、アメリカの医療保険制度が抱える構造的な問題点などとともに現況をお伝えします。
ユナイテッドヘルスケアという医療保険会社
ユナイテッドヘルスケア(United Healthcare)は、ユナイテッドヘルスグループ(United Health Group)を親会社に持つ、アメリカ最大の民間医療保険会社です。グループ内に7200の医療機関と180万人の医療従事者を抱え(2023年12月末時点)、年間2730万人にマネージドケアをベースにした医療サービスを提供しています。なお、ユナイテッドヘルスグループは、ウォルマート、Amazon、Appleに続く、アメリカで四番目に大きな民間公開企業です。
ブライアン・トンプソン氏は、2017年にユナイテッドヘルスケアのCFO(Chief Financial Officer)を務めたことから同社でのキャリアをスタートさせたアメリカ医療界のベテランです。大手コンサルティングファームのプライスウォーターハウスクーパース勤務を経て2004年にユナイテッドヘルスケアへ入社、同社の政府機関用医療プログラム担当オフィサーを務めた後、2021年にユナイテッドヘルスケアのCEOに就任、2024年12月にニューヨークで射殺されるまで同社の経営に敏腕を振るってきました。射殺された当時、トンプソン氏はまだ50歳の若さでした。

容疑者ルイージ・マンジオーネ
一方、容疑者のルイージ・マンジオーネ(Luigi Mangione)はメリーランド州ボルティモア出身の26歳、名門ペンシルバニア大学大学院コンピューターサイエンス学部を卒業した超インテリです。高校の卒業式で生徒総代を務めたほど成績優秀で、通常のキャリアパスを通っていれば相応のキャリア形成が見込めた前途有望な若者でした。なお、マンジオーネ家はボルティモアで古くから事業を興し、不動産開発業を筆頭にゴルフ場経営や介護施設運営などの事業を展開してきた名門一族です。
ルイージ・マンジオーネが起こした今回の事件は、マンジオーネ一族にも大きなショックを与えたようで、ルイージの叔父でメリーランド州議会議員のニーノ・マンジオーネ氏は、「我々マンジオーネ家の全員は、ブライアン・トンプソン氏のご遺族に心からの祈りを捧げます。そして、今回の事件に関わったすべての人にも祈るようお願いします」との短いコメントを発しています。

キーワードは「三つのDワード」
事件発生から5日後の朝、ペンシルバニア州アルトゥーナのマクドナルドで逮捕されたルイージ・マンジオーネですが、犯行の動機は何だったのでしょうか。事件当時、現場にはマンジオーネが発射した弾丸の薬きょうが複数残されていましたが、“Deny(拒否)”、“Defend(防衛)”、“Depose(追放)”の、Dで始まる三つのワードが記されていました。捜査関係者は、この「三つのDワード」に注目し、動機に繋がるキーワードである可能性が高いと判断しています。
なお、アメリカには民間医療保険を揶揄する「三つのDワード」というものが存在します。“Deny(拒否)”、“Defend(防衛)”、“Delay(遅延)”の三つです。保険会社が保険加入者や医療機関に対する保険金の支払いを避ける口実として頻繁に使うため、「保険の三つのD」(The three Ds of insurance)とネガティブな意味を込めて使われています。マンジオーネは、SNSに自分の医療保険利用履歴に関する画像データなどを投稿しており、犯行の動機につながる材料のようなものを自ら提示しています。

「コーポレートアメリカ」に対する挑戦か?
アメリカの大手メディアNBCは、ユナイテッドヘルスが声明で、ルイージ・マンジオーネがユナイテッドヘルスケアの医療保険に加入したことはなく、同社の医療サービスも利用した事実もないと発表したと報じています。マンジオーネはユナイテッドヘルスケアに対する怨恨からではなく、ましてや同社のトンプソンCEO個人に対する恨みからでもなく、犯行を犯したようです。
捜査当局は、マンジオーネの自宅を捜索した際、アメリカの巨大企業に対する非難を綴った手書きのメモを押収しています。アメリカの巨大企業を「寄生虫」(Parasites)であると断定し、「寄生虫どもが当然の報いを受けた」(these parasites simply had it coming.)というメッセージは、マンジオーネによる「コーポレートアメリカ」に対する挑戦としか眼に映りません。マンジオーネは、トンプソンCEOを射殺することで、アメリカの医療保険制度が抱える構造問題や、ひいてはコーポレートアメリカ全体に対するシュプレヒコールを叫びたかったのかも知れません。
なお、今回のマンジオーネの凶行は決して許されるべきものではありませんが、少なからぬ数のアメリカ人がマンジオーネを英雄視し、資金援助などを申し出ているそうです。医療保険会社の「三つのD」に苦しむアメリカ人が少なくないことを実感させられるばかりですが、アメリカの医療制度全体の複雑さを鑑みるに、この事件を解き明かすのは決して簡単ではないと、改めて思わされるのでした。

前田 健二(まえだ・けんじ)
上席執行役員
シニアマーケティングコンサルタント(北米統括)
大学卒業と同時に渡米し、ロサンゼルスで外食ビジネスを立ち上げる。帰国後は複数のベンチャー企業のスタートアップ、経営に携わり、2001年に経営コンサルタントとして独立。事業再生、新規事業立上げ、アメリカ市場開拓などを中心に指導を行っている。アメリカ在住通算七年で、現在も現地の最新情報を取得し、各種メディアなどで発信している。米国でベストセラーとなった名著『インバウンドマーケティング』(すばる舎リンケージ)の翻訳者。明治学院大学経済学部経営学科博士課程修了、経営学修士。