アメリカ国民を窮地に追いやる「医療保険の三つのD」とは?

前回の「アメリカ最大の医療保険会社CEOが射殺されたワケとは?」という記事で、アメリカ最大の医療保険会社ユナイテッドヘルスケアのブライアン・トンプソンCEOが26歳のインテリ青年ルイージ・マンジオーネに射殺された理由について考察しました。動機の遠因としてアメリカの医療保険における「三つのD」の存在があり、多くのアメリカ人がその影響を受けていることがあるらしいことを記しました。「医療保険の三つのD」とは何なのか、あらためて詳しく説明します。
「医療保険の三つのD」
アメリカの医療保険における「三つのD」とは、Deny(拒否)、Delay(遅延)、Defend(防衛)のことです。Deny(拒否)とは医療保険会社による医療機関や保険加入者に対する医療費支払拒否のこと、Delay(遅延)とは、医療保険会社による医療機関や保険加入者に対する医療費支払遅延のこと、そしてDefend(防衛)とは、医療費支払拒否や遅延などに対する訴訟を起こされた場合の医療保険会社による防衛のことです。
端的には、医療保険に加入していたとしても医療保険会社が医療費を医療機関や保険加入者へ支払ってくれない、あるいは支払ってくれたとしても当初想定期間から大きく遅れて支払われる、そして最悪のケースとして保険加入者や医療機関から訴訟を起こされた場合に弁護士などを雇って自らを防衛される、といったイメージです。

アメリカの医療保険のDeny(拒否)の実態
では、医療保険の「三つのD」のうち、保険加入者にもっとも影響が大きいと見られるDeny(拒否)についてですが、医療保険会社は実際にどの程度医療費などの支払をDenyしているのでしょうか。
アメリカの民間医療シンクタンクのKFFが行った調査によると、アメリカの民間医療保険会社のDenial rate(支払拒否率)の平均は21%で、請求数5件のうち1件が支払いを拒否されているそうです。中でもトンプソンCEOが射殺されたユナイテッドヘルスケアとAVMedのDenial rateが高く、2023年度に医療保険販売サイト「マーケットプレース」を通じて販売された医療保険からの支払請求の三分の一が支払いを拒否されたそうです。
ユナイテッドヘルスケア以外の医療保険会社のDenial rateも軒並み高く、アンセム(Anthem)23%、メディカ(Medica)23%、アトナ(Aetna)22%となっています。平均で請求数5件のうち1件が支払いを拒否されているわけですから、支払い請求が多い加入者などの多くが、実際に支払い拒否を経験しているであろうことは想像に難くありません。

医療保険会社が医療費支払いを拒否する理由
では、医療保険会社はなぜ医療費の支払いを拒否するのでしょうか。ある民間医療保険コンサルティング会社が行った調査によると、医療費支払拒否の原因としてもっとも多いのが「患者情報の誤記載」です。患者の名前のスペルミス、誕生日や住所の間違い、保険番号の誤記載などです。単純な記入ミスから医療費の支払いがストップされているイメージです。
次に多いのが「保険適用外サービス」です。アメリカの民間医療保険は、どの疾病やケガなどをどのようにどの程度カバーするか約款で非常に細かく定めています。その約款の適用外の疾病などに対する治療については保険金が支払われないケースが多いです。また、救急車や救急救命室の「不適切な利用」や、「過剰な処置」などについても支払いが拒否されるケースが多いです。
「ネットワーク外医療機関での受信」も支払い拒否の理由のひとつです。アメリカの民間医療保険の多くはPPO(Preferred Provider Organization)と呼ばれる組織を構成していて、特定の医療機関をネットワークしています。通常はネットワーク内の医療機関での受診に対して保険金が支払われ、ネットワーク外の医療機関での受診は支払いの対象になりません。
他にも「保険金支払いの事前承認なしの受診」「保険金支払い請求期限越えの請求」「二重請求」などの多くの理由をもとに医療保険会社は保険金支払いを拒否しています。

根底にあるのは「医療保険会社による利益追求」
医療保険会社が医療費の支払いを拒否する理由は多くありますが、その根底に「医療保険会社による利益追求」があるのは間違いないでしょう。日本では株式会社などの営利組織による医療機関経営が認められてなく(ごく少数ですが、最近は例外のケースも出現しているようですが)、医療を利益追求の手段とすることは原則禁じられています。
一方アメリカでは、全体の21%の医療機関が株式会社などの営利組織によって運営されていて、利益を追求して株主価値を最大化することが「当然の行為」と社会的に認識されています。射殺されたトンプソンCEOが率いていたユナイテッドヘルスケアの親会社ユナイテッドヘルスは、年間売上高4000億ドル(2024年度、約62兆円)の、アメリカで四番目に大きな公開企業なのです。
医療保険会社が利益を追求する以上、コストである医療費の支払いを可能な限り避けようとするのは自由主義経済の宿命です。医療保険会社、保険加入者、そして医療機関は、いわば「三つ巴のトレードオフ」の関係にあり、お互いが可能な限り得しようとすることで全体のコストやサービスが悪化してしまうマイナスサムゲームに陥っているようです。アメリカの医療制度が抱えている構造的な問題は、深くて根強く、極めてやっかいなシロモノであるとせざるを得ないのです。

前田 健二(まえだ・けんじ)
上席執行役員
シニアマーケティングコンサルタント(北米統括)
大学卒業と同時に渡米し、ロサンゼルスで外食ビジネスを立ち上げる。帰国後は複数のベンチャー企業のスタートアップ、経営に携わり、2001年に経営コンサルタントとして独立。事業再生、新規事業立上げ、アメリカ市場開拓などを中心に指導を行っている。アメリカ在住通算七年で、現在も現地の最新情報を取得し、各種メディアなどで発信している。米国でベストセラーとなった名著『インバウンドマーケティング』(すばる舎リンケージ)の翻訳者。明治学院大学経済学部経営学科博士課程修了、経営学修士。