労働者保護?アメリカに「労災保険」は存在するのか?

前に「弱者切り捨て?アメリカに「生活保護制度」は存在するのか?」という記事を投稿させていただいたところ、大変多くのアクセスをいただく結果となりました。現在も引き続き多くの人に読んでいただいているようで、アクセス数も高いままで推移しています。アメリカのセーフティネット制度に関心をお持ちの方が少なくないようですが、では、アメリカには「労災保険」は存在しているのでしょうか。

全雇用主加入必須の「労災保険」

先に結論を書いてしまいますが、アメリカに「労災保険」は存在します。アメリカではWorkers’ Compensation Insuranceまたは単にWorkers’ Compensationと呼ばれていて、アメリカでは珍しく、テキサス州を除いて、すべての雇用主に加入が求められています。Workers’ Compensationは、州ごとに管理・運営されていて、保険料や給付内容も州により微妙な違いがありますが、労働者の勤務中に生じたけがや病気の治療代、逸失給与、死亡時などの補償金などが支払われる仕組みです。

Workers’ Compensationの被保険者(給付の受取人)は、基本的にはすべての「労働者」(Worker)です。労働者であればパートタイムであろうが不法労働者であろうが給付の対象になります。一方、保険料そのものは100%雇用主が負担します。アメリカで起業し、従業員を一人でも雇用すれば、直ちにWorkers’ Compensationに加入する義務が生じます。

Workers’ Compensationの歴史

アメリカでは珍しい雇用主加入必須のWorkers’ Compensationですが、どのように始まったのでしょうか。アメリカで初めて本格的なWorkers’ Compensationを導入したのはウィスコンシン州で、1911年のことです。その後1913年までの二年間に別の9州がWorkers’ Compensationを導入し、1948年にミシシッピー州が導入したのを最後に、アメリカのすべての州で導入を終えています。

アメリカでWorkers’ Compensationが広く導入されたことの背景には、勤務中にけがをする労働者と、治療や補償を求めて争われる労働争議の多さがあったとされています。例えば、1913年の一年間で、2万5000人の労働者が勤務中の事故で死亡し、70万人がけがをしたとされています。当時の労働環境は劣悪で、特に鉄道や建設などの作業現場でけがをする労働者が続出したようです。中には、けがをしても十分な治療費や補償が得られず、泣き寝入りを余儀なくされるケースも少なくなかったでしょう。Workers’ Compensationを導入することで、労働者は労働災害の補償を受けられ、雇用主は労働争議や訴訟のリスクを回避できる。アメリカで広くWorkers’ Compensationが導入された根源的な理由として、Workers’ Compensationが労働者と雇用主の双方に大きなメリットをもたらすという、アメリカらしい経済合理的な判断があったことは間違いないでしょう。

保険料はいくら?

そんなWorkers’ Compensationですが、実際の保険料はいくらでしょうか。答えはケースバイケースですが、Workers’ Compensationの保険料は、多くの州において基本的に以下の計算式で算出されます:

職種分類コード X 経験変容ファクター X (給与額÷100)

職種分類コードは700種類の職種で構成されていて、職種ごとに掛け率が異なっています。基本的には、労働災害に会うリスクが低い職種(事務職など)の掛け率は低く、リスクが高い職種(建設作業員など)の掛け率は高くなっています。

経験変容ファクター(Experience Modification Factor)は、基本的には雇用主のこれまでの
Workers’ Compensationの利用履歴です。当然ながら、雇用主がこれまでにWorkers’ Compensationへ支払い請求を行っていると、そうでない雇用主よりも掛け率が高くなります。一般的には、これまでに支払い請求がない雇用主の場合、経験変容ファクターは1.0になります。

いずれにせよ、Workers’ Compensationの保険料は年々更新されるので、実際に支払う金額は、労働者を実際に採用して仕事の内容や給与額などが決まらないとわからないのが実情です。多くの雇用主は、労働者を採用した後に付き合いのある保険会社へ見積もりを依頼して実際の数字をつかんでいます。

不正を行うケースも

なお、アメリカではWorkers’ Compensationで不正を行うケースが後を絶ちません。中でも多いのが架空請求です。つまり、実際はけがをしたり病気になっていないのに勤務中にけがをしたとして治療代を請求したり、持病を患っている労働者が病気になったのは職場の環境のせいだとして治療代を請求したりするケースです。また労働者以外にも、雇用主が労働者の職種分類コードを偽って加入して保険料を安くするといったケースや、労働者の治療を行う医療機関が実際は行っていない治療の治療費を請求するといったケースも少なくないそうです。アメリカ保険犯罪捜査局によると、アメリカでは年間300億ドル(約4兆1400億円)規模のWorkers’ Compensationの不正請求が行われていて、当局が対応に苦慮しているそうです。最近はAIを使って不正請求を検知する試みもなど行われているようですが、なかなか成果には結びついていないようです。

なお、Workers’ Compensationの不正請求に対しては厳しいペナルティが課せられます。実際に架空の従業員を使って治療費8万30000ドル(約1145万円)を受け取っていたニューヨークのビジネスオーナーが詐欺罪で懲役3年の刑を受けています。アメリカ社会はフェアであることを重んじる社会ですが、ことWorkers’ Compensationにおける不正に対しても厳しい社会であるのは間違いないようです。

執筆者

前田 健二(まえだ・けんじ)

上席執行役員
シニアマーケティングコンサルタント(北米統括)

大学卒業と同時に渡米し、ロサンゼルスで外食ビジネスを立ち上げる。帰国後は複数のベンチャー企業のスタートアップ、経営に携わり、2001年に経営コンサルタントとして独立。事業再生、新規事業立上げ、アメリカ市場開拓などを中心に指導を行っている。アメリカ在住通算七年で、現在も現地の最新情報を取得し、各種メディアなどで発信している。米国でベストセラーとなった名著『インバウンドマーケティング』(すばる舎リンケージ)の翻訳者。明治学院大学経済学部経営学科博士課程修了、経営学修士。

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